将棋アンテナ 棒銀くん
  • 田丸 雑学堂

    田丸 雑学堂 (田丸昇 九段)さんのTwitterデータ

    @NoboruTama0505
    将棋棋士の田丸昇(九段)です。約50年の棋士人生で得た経験や知識を基に、将棋界の情報や裏話、雑学などを書きます。私が関心を持つ将棋以外の分野をたまに題材にします。若い頃に撮った写真や所有している写真も載せます。コメントをお待ちしています。
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    • 開始した日 2023年9月17日
    • 住所 東京都
  • 大山康晴の死後、大山夫人と升田幸三夫人が会う機会があった。生前は両家の付き合いはほとんどなく、両夫人は夫から悪口を聞かされていた。その場ではしみじみと語り合い、故人を偲んだ。将棋連盟は、将棋の普及に尽力した人に「大山康晴賞」、創造的な将棋を指した棋士に「升田幸三賞」を贈っている。
  • 大山康晴は1992年7月上旬に体調が悪化して入院。面会者に「今度が一番きついわ」と弱音をもらした。同年7月26日、大山は69歳で死去した。葬儀は29日に杉並区の築地本願寺で執り行われ、千人以上の会葬者が別れを惜しんだ。91年に73歳で死去した兄弟子の升田幸三に、あの世から呼ばれたとも言われた。
  • 大山康晴は1992年に名人戦の4者プレーオフ1回戦で敗れたが、新聞は驚異的な復活劇を「まさに不死鳥」と報じた。ただ完治したわけではなかった。主治医は昼寝と散歩による静養を勧めた。大山は名人戦の立会人を務めたり、温泉旅館で知人たちと好きな麻雀を打った。人と交流するのが生きがいだった。
  • 大山康晴は盤上盤外で精力的に活動して「超人」と呼ばれた。しかし長い年月で無理が重なったようだ。1985年に大腸ガンに罹患し、1年間の休場をした。91年には肝臓への転移が発覚して緊急手術を受けた。それから1カ月半後に公式戦に復帰し、A級順位戦で3連勝して名人戦の4者プレーオフに進んだ。
  • 大山康晴は「A級から落ちたら引退する」と公言していた。1991年のA級順位戦最終戦では、大山が桐山清澄に敗れると降級が濃厚だったが、平静な様子で指していた。そして大山が勝ってA級残留を決めると、将棋会館の大盤解説会では大山の進退を心配したファンから拍手が巻き起こり、涙ぐむ人もいた。
  • 大山康晴は50歳以降も公式戦で活躍した。タイトル戦に登場は22期で、棋聖7連覇を含めて11期もタイトルを獲得。1973年度から91年度の年間勝率は、7割台2期、6割台7期で、4割台は4期のみ。羽生善治は「大山先生は60代でも強さと迫力があり、私はその領域にまだいっていません」と以前に語った。
  • 田丸は六段時代の1979年、大山康晴と公式戦で初対局した。大山の振り飛車に対して強く攻めたが、柔らかく受けられて敗れた。巨大な岩というよりも、軟体動物の蛸にからめ捕られた感じだった。田丸は大山と対戦して4勝8敗。記録上は善戦したが、90年の棋王戦挑戦者決定戦など、大一番では負かされた。
  • 大山康晴はゴルフをたまに楽しんだ。写真(いずれも田丸撮影)上は将棋連盟コンペの光景。大山(左から2人目)はボールがそれても、リカバリーショットが巧みだった。左は中原誠。写真下の右は打ち下ろしホールに立つ大山。連盟ゴルフ会の名称は「桂馬会」。その駒のようにボールが左右によく曲がった。
  • 大山康晴と升田幸三は宿命のライバルとして盤上で名勝負を繰り広げてきた。盤外では半目することも多々あったが、将棋連盟の重要問題に際しては手を携えて協力した。写真(田丸撮影)は、囲碁大会での光景。対局を終えた升田が大山の戦いを見守っている。ともに柔和な表情で、兄弟弟子の絆を感じられる。
  • 大山康晴は1974年に将棋連盟の理事に就き、76年から89年まで7期14年にわたって会長を務めた。最大の功績は、76年に東京・千駄ヶ谷に将棋会館、81年に大阪・福島に関西将棋会館を建設したことだ。いずれも大山が先頭に立った募金活動によって成し遂げられた。在任中は棋風と同じく手堅い運営をした。
  • 1973年の王将戦で大山康晴王将は中原誠名人に敗れ、14年ぶりにタイトルが無冠になった。50歳の大山に引退説が流れたが、「まだまだ指せる」と否定した。実際に74年に棋聖を獲得。75年には棋聖戦で米長邦雄八段の挑戦を下し、大山は節目の「百回優勝」を果たした。◆大山シリーズは以降も続く。
  • 1972年(昭和47)の名人戦は「棋界の太陽」と呼ばれた24歳の中原誠十段が大山康晴名人に挑戦。中原は4勝3敗で大山を破って新名人に就いた。名人在位通算18期の大山はついに敗れた。その大山は中原名人就位式で、「中原さん、もっと強くなってください」と異例の挨拶をした。名人復位を目指していた。
  • 大山康晴は、将棋の勝負は技術がすべてではないと思った。升田幸三との対局では、病弱で食の細い升田に見せつけるように、わざとたくさん食べて元気さを示した。タイトル戦の対局場では合間に関係者と麻雀を打ち、対局中は控室で打たせてたまに観戦した。その場の空気を自分のペースにするためだった。
  • 大山康晴は1960年代前半に五冠王(名人・王将・十段・王位・棋聖)になり、全盛時代を長く築いた。1957年から67年の10年間、タイトル戦に50期連続で登場した。その間に2回失冠したが翌期に奪還。振り飛車を駆使した大山将棋の強さは、危機を逃れる強靭な二枚腰にあり、「終盤が二回ある」と言われた。
  • 大山康晴はタイトル戦で升田幸三に負け続けた頃、経済的事情もあって生活を改めた。最寄り駅(東京・荻窪)へタクシーに乗らずに歩く、煙草を止める、自宅のお手伝いの人に暇を出すなど。やがて大山は足元を固めて不調を脱し、升田からタイトルを奪還してV字回復を果たした。徒歩や禁煙で健康になった。
  • 大山康晴は1956年から58年にかけて、升田幸三とのタイトル戦(当時は三冠)で敗退を重ねた。ただ予選を勝ち抜き、他の棋士に挑戦権を渡さなかった。対局が増えると体力温存のために、序盤が居飛車(当時は矢倉や相掛かりを指した)より楽な振り飛車を指し始めた。後年にはそれを十八番の戦法に仕立てた。
  • 1956年の王将戦で大山康晴王将は升田幸三八段に3連敗し、当時の規定で失冠した。さらに第4局の香落ち戦(升田が香を落とす)で、名人の立場で敗れる屈辱を喫した。大山の苦難は以後も続き、升田に名人と九段のタイトルを奪われた。大山が頭を下げる投了場面をカメラマンの注文で繰り返すこともあった。
  • 大山康晴は1952年から56年の名人戦で5連覇。規定によって十五世名人の永世称号を取得した。名人就位式では「故郷の父親にその十五世を五つ取れと言われた。早くても20年かかるが、そのぐらいの気持ちで精進したい」と挨拶した。当時の大山は勝つのが当たり前だったが、いつしか緩みが生じてきた……。
  • 1952年の名人戦は木村義雄名人に大山康晴八段が挑戦し、大山が4勝1敗で破って29歳で新名人に就位。関西出身棋士の名人は初の例で、新聞は見出しで「名人の箱根越え」と表現した。木村は「良き後継者を得た」と語り、現役引退を47歳で表明した。写真は大山(左)と木村。◆大山シリーズは以降も続く。
  • 1948年の名人戦挑戦者決定三番勝負は、兄弟弟子の升田幸三八段と大山康晴七段が対戦。対局場は真言宗の大本山がある和歌山県の高野山。1勝1敗で向かえた第3局の終盤は升田の勝ち筋だったが、軽率な手を指して逆転負けした。升田は直後に「錯覚いけない。よく見るよろし」と、おどけるように嘆いた。
  • 第1期順位戦に大山康晴六段と兄弟子の升田幸三七段はB級で出場した。升田は12勝2敗でA級に昇級、大山も11勝3敗の好成績だったがB級に残留。第2期順位戦は升田がA級で優勝した。しかし前年に規約が変わり、A級2位・3位の棋士、B級1位の大山七段の4人で、名人戦の挑戦権を争うことになった。
  • 終戦まもない1945年(昭和20)11月。棋士たちが集まって臨時総会が開かれ、会長で名人の木村義雄の発案で現行の「順位戦」制度が決定した。大山康晴はその頃、故郷の岡山で畑仕事をしていた。升田幸三は南太平洋の孤島で何とか生き延びた。船で帰国すると故郷の広島に戻り、疲弊した体の回復に努めた。
  • 升田幸三は木村義雄名人を破って人気が高まったが、21歳のときに召集令状が来て軍隊生活を余儀なくされた。大山康晴はその間に頭角を現わしていった。戦争が激化すると公式戦は休止。大山も召集されて21歳で岡山の部隊に所属。再召集された升田は南太平洋の絶海の孤島で、明日をも知れぬ日々を送った。
  • 1935年(昭和10)に実力名人戦が創設され、初代名人に東京の木村義雄が就位。大山康晴と升田幸三は無敵を誇った木村を目標に切磋琢磨した。特に升田は木村に敵愾心を燃やした。六段時代に木村との初対局では、ミカンを食べたり煙草を吸いながら指した。そして升田は木村を破った(手合は木村の香落ち)。
  • 大山康晴は奨励会に入会した5年後、17歳で四段に昇段して棋士になった。大山は兄弟子の升田幸三によく教わった。当初は大山が攻め将棋で、升田は受け将棋。ある時期から両者の棋風は逆になり、升田の厳しい攻めを大山が懸命に受けた。後年に強靭な受け将棋を確立したのは升田に鍛えられたことによる。