将棋アンテナ 棒銀くん
  • 田丸 雑学堂

    田丸 雑学堂 (田丸昇 九段)さんのXデータ

    @NoboruTama0505
    将棋棋士の田丸昇(九段)です。約50年の棋士人生で得た経験や知識を基に、将棋界の情報や裏話、雑学などを書きます。私が関心を持つ将棋以外の分野をたまに題材にします。若い頃に撮った写真や所有している写真も載せます。コメントをお待ちしています。
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    • 開始した日 2023年9月17日
    • 住所 東京都
  • 1973年に棋士チームの野球に初参加したときの写真があったので掲載する。打者は当時23歳の田丸。現在、この神宮外苑グラウンドの周辺に高層ビルを建てる計画があり、その関連で数多くの樹木が伐採される恐れがある。音楽家の故・坂本龍一さんが訴えたように、私も自然の景観を損ねることに反対だ。
  • 棋士チーム「キングス」と作家の逢坂剛さんのチームの前掲の集合写真で、逢坂さんの後ろにいるのが、オールスターの「9連続奪三振」や日本シリーズの「江夏の21球」で知られた元プロ野球選手の江夏豊さん。当日は逢坂さんの応援で来た。とても気安い方で、田丸とのツーショット写真に応じてくれた。
  • 田丸は1988年に38歳で草野球をやめたが、「キングス」は現在も活動している。11年前の2013年には久しぶりに参加した。対戦相手は将棋を愛好する直木賞作家の逢坂剛さんが率いる編集者中心のチーム。写真中央のサングラス姿が当時70歳の逢坂さん。その右前は田中寅彦九段。中列右端は田丸。
  • 棋士チーム「キングス」は、漫画家の水島新司さんが率いる「ボッツ」と神宮外苑で定期的に対戦した。水島さんは将棋好きで、「父ちゃんの王将」という漫画を描いた。そんな縁で水島さんの漫画「あぶさん」第31巻(写真)の中に田丸が登場し、酒豪の強打者「影浦安武」と会話する場面を設定してくれた。
  • 写真上は、横浜球場でプレーした棋士チームとスポーツニッポン新聞。後楽園球場での使用料は各15万円だったが、スポーツ紙のコネでかなり安かった。棋士チームの名称は王将にちなんで「キングス」。写真下は、前例の左端はエースの有野芳人、後列の4人目は田丸、6人目は今も草野球現役の武市三郎。
  • 田丸は1977年に棋士チームに入ると、野球の楽しさに引かれた。年間50試合もした時期があり、「将棋指し」ではなく「野球指し」と呼ばれた。79年には後楽園球場で初めて野球をした。写真は、左の2人目から田丸、滝誠一郎、沼春雄の棋士たち。カクテル光線が当てられた人工芝は美しく好プレーをできた。
  • 写真は、1973年に行われた野球に参加した棋士たちなど。前例左から1人目は中原誠(当時名人)、5人目は田丸、右端は今は「株主優待」で有名な桐谷広人(同三段)。中列3人目は野球部元監督の加藤治郎(同八段)、4人目は関西から参加した桐山清澄(同七段)。ユニフォームのNSRは日本将棋連盟の略。
  • 1973年(昭和48)に行われた棋士チームの野球の試合に、田丸(当時四段・23歳)は初めて参加した。飛び入りだったのでジーパンでプレーした。グラウンドは草野球の聖地として知られた明治神宮外苑軟式野球場(6面あった)。東京・千駄ヶ谷の将棋会館に近いので、棋士チームはよく利用した。
  • 田丸は少年時代、後楽園球場で巨人の試合をたまに観戦し、長嶋茂雄、王貞治らの名プレーに感動した。東京都荒川区に住んでいた頃、大毎(現ロッテ)の本拠地になった近くの東京球場でよく観戦した。快速球を武器にして「怪童」と呼ばれた尾崎行雄(東映)の投球を見たが、マサカリ投法のように豪快だった。
  • 田丸は幼年時代、父親の生地の神奈川県横浜市で育った。だから地元のプロ野球チームの横浜D eNAの日本一はうれしい。以前には巨人にカモにされ「横浜大洋銀行」と揶揄された時期もあった。ただ貯金2、勝率・507という今季成績は不満だ。CSの1位チームには条件によって「2勝」を付加していいと思う。
  • プロ野球の日本シリーズで、DeNAが2連敗から4連勝してソフトバンクを破り、26年ぶり3回目の日本一を達成した。前回優勝の1998年に主力投手だった三浦大輔が、監督4年目に胴上げされた。セリーグ3位がパリーグ1位に勝った「史上最大の成り上がり」となった。MVPは5試合連続打点の桑原将志。
  • 袴田巌さんは晴れて自由の身になった。しかし48年間もの獄中生活の年月は取り返せない。裁判所と検察はその責任を負うべきだ。検察の「威信」とよく言うが、重要なことは威信ではなくて「公正」で、「疑わしきは被告の利益に」が大原則である。登山でも悪天候のときは、下山する勇気が大事だという。 pic.x.com/6r99Ympf46
  • 2024年10月9日。検察は再審で無罪になった袴田巌さん(88)を上告せず、無罪が確定した。後日に地元の静岡市で集会があった。元ボクサーの袴田さんはチャンピオンベルトを持ち、「長い闘いでしたが完全に無罪となりました」と挨拶。写真はスポーツ紙の記事。市民権を得たので27日の衆院選挙で投票する。 pic.x.com/OSkG3tgQlK
  • 「袴田事件」で東京高裁は1976年に控訴を棄却し、最高裁は80年に上告を棄却した。袴田巌さんの死刑判決が確定した。しかし日本弁護士連合会は81年に再審請求の支援活動を開始した。検察が提出した数々の証拠には偽造の疑いがあった。そして長年の活動が実り、静岡地裁は2014年に袴田さんを釈放した。
  • 袴田巌さんは長い獄中生活で、2階の窓から見える月にわずかな希望を抱いた。娑婆で多くの人も眺めていると思ったからだ。午前9時までに看守が独房に迎えに来ないと、「今日も一日、生き延びた」と安堵した。正月には隣の囚人と照れながら「おめでとう」と挨拶した。自身の死と向き合った日々だった。
  • 1966年に静岡県清水市で起きた一家4人殺人事件で袴田巌さん(当時30)は逮捕された。無実を訴えたが、18日間も続いた強迫的な取り調べに耐え切れず自白した。裁判では一貫して容疑を否認したが、検察が事件の1年後に提出した5点の衣類を、静岡地裁は犯行着衣と認定して68年に死刑判決を言い渡した。
  • 2017年5月、将棋連盟の理事と静岡県浜松市に住む神谷広志八段が袴田巌さんの自宅を訪れ、初段免状を贈呈した。神谷八段と袴田さんの記念対局も予定されていたが、都合によって行われなかった。詰将棋の本を贈られて盤上にその一題が並ぶと、袴田さんは食い入るように見つめて見事に解いたという。
  • 2017年3月、王将戦(郷田真隆王将ー久保利明九段)第6局が静岡県浜松市のホテルで行われた。袴田巌さんの将棋好きを人伝てに知った関係者は、対局場での観戦を招待した。しかし袴田さんは失念し、毎日の習慣で散歩に出かけてしまった。後日に両対局者のサイン入り色紙が姉の秀子さんに届けられた。
  • 写真は映画の場面。左から、ともに冤罪被害者の石川一雄さん(1963年の狭山事件)、袴田巌さん(66年の袴田事件)、菅家利和さん(90年の足利事件)。死刑判決などを受けた3人が晴れて対面した。袴田さんと石川さんは東京拘置所で6年間も一緒だった。拘置所では将棋を指せ、袴田さんは守りの棋風だという。 pic.x.com/cAOrWHT0zh
  • 袴田巌さんは映画監督の金聖雄(キム・ソンウン)さんと将棋をよく指した。若い頃に熱中して腕を上げ、実力が違う金さんにいつも勝った。そのたびに笑顔を見せたという。元ボクサーだけに、1対1の勝負に燃える思いがあるのだろう。袴田さんは将棋を指すことで日常を取り戻していった。写真はその光景。 pic.x.com/57vuuWsWed
  • 袴田巌さんは2014年に東京拘置所を出た後、姉の秀子さんが住む静岡県浜松市で起居を共にした。長年の拘禁症状で妄想と現実が交錯した。映画の場面では、部屋の中を歩き回り、食事の前に呪文のような言葉を唱えた。やがて柔和な表情になり、散歩によく出かけた。写真は、支援者と過ごす穏やかな日々。 pic.x.com/iU0dmiNgIc
  • 田丸は2016年に「袴田巌 夢の間の世の中」という映画を見た。写真はパンフレット表紙。袴田さんは1966年(昭和41)に静岡県清水市で起きた一家4人殺人事件で逮捕され、無実を訴えながら80年に最高裁で死刑判決を受けた。そして長い獄中生活を経て、14年に仮釈放された以後の日々を撮った映画だ。 pic.x.com/wBILtPdeAK
  • 写真は、3年前に東京・阿佐ヶ谷の居酒屋で田丸が弦巻勝さんと飲んだ光景。若い頃は大酒を飲んで議論したが、ともに70歳を過ぎてからはちびちびと飲んで越し方をしみじみ語り合う。そして「健康が何より大事」でお開きにする。20代に会ってから50年。将棋と写真の縁で今日に至り、今後も交流は続く…。 pic.x.com/vLjDg4wKLh
  • 田丸が弦巻勝さんに撮ってもらった写真の中で、2016年9月に竜王戦で近藤誠也四段との対局が最も印象的だ。田丸は負けると引退が決まる。「最後の晴れ姿」の写真になるはずが、私は若手精鋭に対して攻め切って勝ち、幻の引退写真となった。なお、田丸は次の対局に敗れて45年の現役生活が終わった。 pic.x.com/M2jcDEnwra
  • 弦巻勝さんは約35年前に別の写真集を刊行した。一部を転載させてもらう。写真左は、知人が開いた宴会で歌う大山康晴十五世名人で珍しい光景だ。写真右は、四段時代の羽生善治。対局写真は宮田利男六段(伊藤匠叡王の師匠)とのデビュー戦。羽生は天才少年として注目されたが、なぜか撮影者は少なかった。 pic.x.com/S8toxVvehJ