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田丸 雑学堂 (田丸昇 九段)さんのTwitterデータ
@NoboruTama0505将棋棋士の田丸昇(九段)です。約50年の棋士人生で得た経験や知識を基に、将棋界の情報や裏話、雑学などを書きます。私が関心を持つ将棋以外の分野をたまに題材にします。若い頃に撮った写真や所有している写真も載せます。コメントをお待ちしています。- フォロワー 2,194 人
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将棋大成会(現・日本将棋連盟)が第1回から第3回(昭和22年〜24年)のアマ名人戦の上位4人の選手に順位戦への参加を与えたのは、人員を増やすことで、名人戦主催者の毎日新聞社との契約金を増額する根拠にしたようだ。ただ大成会と毎日の交渉は決裂し、昭和24年度から朝日新聞社が名人戦を主催した。
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草創期のアマ名人戦では、上位4人の希望者がプロ公式戦の順位戦に参加できた。成績次第では棋士への道も開けていた。その6人の参加者と成績は、三好幸雄(4敗)、高橋誠司(4勝3敗)、大前吉章(2勝4敗)、加納和夫(7勝5敗)、内山龍馬(3勝8敗)。宮本茂(3勝5敗)。※不戦局を除く。
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アマ名人戦の過去35年の優勝者で、奨励会にかつて在籍したのは、竹中健一さん、鈴木純一さん、桐山隆さん、瀬川晶司さん、長岡俊勝さん、小牧毅さん、今泉健司さん、加來博洋さん、城間春樹さん、鈴木肇さん、関矢寛之さん。このうち瀬川と今泉は後年に「棋士編入試験」を受け、合格して棋士になった。
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今年のアマ名人戦は、関矢寛之さん(東京=31)と西澤佑亮さん(福井=27)が決勝に勝ち進んだ。そして関矢さんが勝って初優勝を果たした。数年前まで奨励会に在籍していたが、年齢制限規定によって三段で退会した。現在は会社員として働いている。写真は、優勝者に贈られるカップ、賞状、盛り上げ駒など。
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田丸は毎年、長野県代表選手の対局を信濃毎日新聞で観戦記を書いている。写真左は小学生の岡村奏汰さん(12)。東海研修会に所属し、いずれは奨励会に入って棋士を目指すつもり。写真右はアマ名人戦の予選リーグの対局。よく健闘したが2連敗で敗退となった。ただ全国の強豪と指して勉強になったという。
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写真左は早咲誠和さん(大分=51 )。アマ名人戦で4回優勝は最多タイ。出場回数は最多の31回。プロ公式戦で好成績を挙げていて、要件を満たせば「棋士編入試験」を受けたいという。写真右・左は福間健太さん(大阪=35)。元奨励会三段。昨年に女流棋士の里見(現・福間)香奈と結婚して話題になった。
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写真・中央右は横山大樹さん(北海道=34)。アマ名人戦で3連覇、朝日アマ名人戦で7連覇してアマ棋界で最強だ。主な勉強法は実戦と棋譜並べで、AIは使わないという。2017年5月に新人王戦で当時四段の藤井聡太と対戦し、敗れたが健闘した。今年は決勝トーナメント1回戦で敗れて4連覇は成らなかった。
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第78回全日本アマ名人戦が9月14、15日に都内ホテルで開かれた。戦後まもない昭和22年から続いている伝統と格式があるアマ棋戦だ。今年は招待選手と全国の代表選手ら62人が出場した。初出場は約4割の26人。20代は23人、10代は10人と、若い世代が半数を超えて新勢力が台頭している。写真は大会の光景。
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写真は、獺ケ口笑保人(おそがぐち・えほと=24)新四段。将棋連盟祝賀会の前日の9月7日に行われた奨励会三段リーグ最終日で、四段に昇段したばかりのほやほやの棋士だ。群馬大学医学部の4年生で、将来は医師免許を取得して棋士との「二刀流」を目指すという。異色の新人の活躍に期待したい。
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写真は、田丸の弟子の小高左季子女流初段。藤井聡太と同年生まれの22歳で、今ではお酒を楽しめるようになった。好きなドリンクはレモンサワー。仲良しの女流棋士と女子会をよく開いているという。今後は、師匠が同席する何かの祝賀会で一緒にお酒を飲むたいものだ。
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女流棋士は50人以上が出席した。中でも緑色の生地に花柄というあでやかな和服姿で注目されたのは、写真の西山朋佳女流三冠。この2日後の9月10日には、「棋士編入試験」第1局で高橋佑二郎四段と対戦する。初の女性棋士を目指して奮闘してほしい。
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写真は、左から2人目は藤井聡太七冠、隣は伊藤匠叡王。先頃の叡王戦で激闘した両者がステージに立った光景は、新時代にふさわしいといえる。また名勝負を繰り広げてほしい。
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写真左は、駒形と100の字をデザインしたステージの背景。写真右は、100人以上の棋士が揮毫した色紙の展示コーナー。席上では将棋連盟の100年の歴史をたどる3分間にまとめた映像が流され、来場者はいろいろな思い出がよみがえった。
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写真は、記念式典で来場者を迎えた歴代の将棋連盟会長と永世称号棋士。左から羽生善治、谷川浩司、佐藤康光、森内俊之。羽生会長は式典で「多くの方々のおかげで、将棋連盟100周年を迎えたことをうれしく思います。社会や将棋ファンとのつながりを大事にして、さらなる発展を目指します」と挨拶した。
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日本将棋連盟は1924年(大正13)に創立して以来、9月8日で100周年を迎えた。それを記念する式典と祝賀会が東京都千代田区「帝国ホテル」で盛大に開催された。約250人の棋士、女流棋士らが出席し、多くの棋界関係者や将棋ファンなどと喜びを分かち合った。写真は、一堂に会した光景で壮観だった。
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1976年4月、現在の5階建てビルの将棋会館が建設された。それから48年、ほぼフル稼働して今日に至っている。工事や補修を重ねてまさに満身創痍だが、ある業者は「元気なおじいちゃん」と評した。田丸は2001年から03年まで「将棋世界」編集長として、地下の編集部で業務をこなしたのが良い思い出だ。
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旧将棋会館の外観は白壁で落ち着いた佇まいだった。茶道や舞踊の大家の邸宅という趣があった。しかし、次第に老朽化して手狭になった。日本船舶振興会(現・日本財団)の建設助成金によって、1975年に取り壊して新会館を建設した。工事中の期間は、囲碁団体の日本棋院旧本部だった高輪の建物を借りた。
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写真(田丸撮影)は、旧将棋会館の玄関脇に置かれた卓球台で、棋士たちがプレーする光景。左から桐山清澄、森安秀光、正幸(2人は兄弟)、野本虎次。その日は関西の棋士が多かった。歓声やボールの音が2階の対局室に響いたと思うが、文句を言う対局者はいなかった。当時は何かにつけて鷹揚だった。
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旧将棋会館の2階は数10畳もの大広間。平日は公式戦の対局、週末はアマ大会が行われた。写真(田丸撮影)は、1974年10月上旬の女流アマ名人戦の光景。華やかな雰囲気だが勝負は苛烈だった。ある記者は「凄絶!女の戦い」と表現した。なお10月下旬に女流棋士制度が発足し、成績優秀者がプロに推薦された。
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旧将棋会館に入ると、広いロビーの先に「特別対局室」があった。写真は、右側の奥から升田幸三、ニ上達也、有吉道夫らのA級棋士。この部屋で指すことが一流棋士の証しだった。掛軸の「将棋會舘」は、将棋を愛好した洋画家の梅原龍三郎が揮毫した。障子の裏側には中庭があり、風雅な雰囲気だった。
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田丸が木造2階建ての旧将棋会館に初めて行ったのは、小中学生向けの将棋会に参加した1964年。正面に着くと1階の将棋道場から駒音が聞こえてきた。やがて道場で指すようになり、若き日の米長邦雄の指導対局を見て、爽やかな印象に惹かれた。その後、佐瀬勇次の門下に入り、米長の弟弟子になれた。
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将棋会館がある千駄ヶ谷の土地は徳川家の馬場跡だった。江戸時代末期に薩摩藩から将軍家に嫁いだ天璋院(大河ドラマ「篤姫」のヒロイン)は、江戸幕府が崩壊すると千駄ヶ谷の徳川宗家の屋敷で暮らした。千駄ヶ谷一帯は萱が多く生えていて、一日に千駄(一駄は36貫)の萱を刈り取ったのが地名の由来という。
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東京・千駄ヶ谷の将棋会館は、千駄ヶ谷駅前に建設中のビル1階に10月以降に移転する。戦後の将棋連盟本部は、後楽園球場のスタンド下の事務室、中野の元横綱・照国の相撲部屋跡を経て、1961年に千駄ヶ谷に木造2階建ての旧将棋会館が建設された。プロ野球、相撲、国立競技場と、スポーツと縁があった。
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東京五輪の記録映画(監督・市川崑)には多くの名場面がある。田丸は閉会式の光景に感動した。選手たちは国や人種の垣根を越えて入り乱れるように行進し、日本人旗手を肩車した。競技場が暗くなると花火が打ち上げられ、女性合唱団の「蛍の光」が流れた。そして電光掲示板に「SAYONARA 」でフィナーレ。
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田丸は東京五輪で、中学校のクラス単位で観戦できた。競技はさまざまで、私は駒沢競技場(世田谷区)でのサッカーを割り当てられた。ヨーロッパと南米のチームだった。当時はサッカー人気はあまりなく、だから大人数で見られたようだ。日本のチームには川淵三郎、釜元邦茂らがいて、準々決勝で敗退した。