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田丸 雑学堂 (田丸昇 九段)さんのXデータ
@NoboruTama0505将棋棋士の田丸昇(九段)です。約50年の棋士人生で得た経験や知識を基に、将棋界の情報や裏話、雑学などを書きます。私が関心を持つ将棋以外の分野をたまに題材にします。若い頃に撮った写真や所有している写真も載せます。コメントをお待ちしています。- フォロワー 3,178 人
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「ジェームス三木さんを送る会」は華やかで和やかな雰囲気だった。2001年に三木と結婚した直子夫人(写真右)は、帰りがけに晩年の様子を田丸に伝えてくれた。ネットで将棋や数独を楽しむ穏やかな日々を過ごしたという。三木は自伝で「人が楽しんでくれると私まで楽しくなる。それが愛でしょ」と綴った。
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写真は右から渡辺謙、三田佳子、里見浩太朗らの俳優たち。いずれもジェームス三木・脚本のドラマに数多く出演した。1985年にNHK連続テレビ小説「澪つくし」で主演した沢口靖子は、「素人同然だった私にとって、女優の原点になった作品でした。今の私があるのはジェームスさんのおかげです」と語った。
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写真左は挨拶した俳優の渡辺謙。ジェームス三木・脚本のNHK大河ドラマ「独眼竜政宗」(1987年)で主演した。平均視聴率が約40%と大ヒットし、あの1年があって現在に至るという。三木も渡辺もその作品で大いに躍進した。写真右は北大路欣也で、政宗の父親役だった。母親役は岩下志麻。
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ジェームス三木は脚本家として成功しても、歌手時代の芸名にこだわった。13年間の売れない頃に応援してくれた人たちに、頑張っていると伝えたかった。ちなみに「ジェームス槙(まき)」という脚本家が、映画「東京物語」で知られる名監督の小津安二郎の筆名と知って驚いた。写真は俳優たちのご供花。
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写真・上中は歌手時代のジェームス三木。横浜のナイトクラブで同僚だった青江三奈が歌手デビューして華やかに活躍すると、嬉しい反面、嫉妬にかられたという。その後、心機一転してシナリオ教室に通った。そして新人コンクールに応募して1位になり、名監督の野村芳太郎に認められて脚本家を目指した。
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昨年の11月14日。「ジェームス三木さんを送る会」が東京・日比谷の東京會舘で開かれ、生前に交流があった田丸は出席した。写真の祭壇に愛煙家らしい遺影が飾られた。三木は20歳で歌手デビュー。フランク永井に対抗して前記の芸名がついた。ただ曲はまったく売れず、ナイトクラブで歌って生計を立てた。
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昨年の6月14日。NHK大河ドラマ「独眼竜政宗」などの作品で知られる脚本家のジェームス三木が肺炎で91歳で死去した。三木は将棋を愛好し(写真)、1991年に将棋界を題材にした前進座の舞台「煙が目にしみる」で脚本と演出を手がけた。田丸は将棋の指導を担当した。そんな縁で三木と交流があった。
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木村義雄は昭和10年代に無敵を誇った。69連勝の大記録を達成した横綱の双葉山と並び称された。木村は名人戦で土居市太郎、神田辰之助の挑戦を退けた。第4期から木村との予備対局で勝ち越し者が挑戦する制度になったが誰も資格を得られず、木村が名人戦で5連覇した。戦後棋界のことは、また改めて…。
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昭和12年12月。2年あまり行われた実力名人戦リーグで、木村義雄(写真)は1位となり、第1期名人に就いた。名人就位式は13年2月に将棋大成会本部で行われ、関根金次郎十三世名人らが出席して新名人を祝福した。式後は木村、関根らの有力棋士が明治神宮に参拝し、新旧名人の交代を神前に報告した。
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2月11日13時7分。木村義雄は95手で阪田三吉に勝った。図は投了局面。対局者らは別室に案内され、南禅寺の宝物を拝観した。そして阪田は「大きにご苦労さまでした」と挨拶し、長女と一緒に車で大阪に帰った。翌朝の読売新聞には「勝てる者も敗れし者も、今はただ無言」との終局後の様子が報じられた。
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京都・南禅寺の対局では、対局者らの食事は近くの老舗料亭「瓢亭」から出前を取った。三食とも献立に工夫があり、美食家の木村を満足させた。中でも朝粥のうまさを初めて知った。3日目の晩には寒さしのぎに燗酒を飲んだ。阪田三吉には知人から粥、湯葉のおひたし、生みたての生卵などが運ばれた。
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阪田三吉が得意の向かい飛車に振ると、木村義雄は守りの金を中段に進めて抑え込みにいった。やがて阪田は6時間も長考し、苦悩の様子を見せた。付き添いの長女がたまらず退室すると、阪田は休憩時に「父親として子どもに残す財産は何もない。苦しみながら将棋を指す姿を見てほしい」と諭したという。
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図は阪田三吉が2手目に△9四歩と端歩を突いた局面。深慮遠謀の手、これで十分との自負、負けたときの言い訳、などの声が上がった。阪田の孫弟子の内藤國雄は後年に「駒損さえしなければ、どんな形でも指せるという将棋観。強者は将棋は簡単ではないことを知っている」と、阪田将棋の奥深さを語った。
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伝説の棋士・阪田三吉が16年ぶりに表舞台に復帰すると、「世紀の対局」として社会的に注目された。読売新聞には「待望の巨人今ぞ起つ!」の見出しが載った。木村義雄が初手に▲7六歩と指すと、阪田は△9四歩と端歩を突いた。後手番のうえに不急の手なので、立ち遅れの懸念がある。阪田の真意とは…。
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昭和12年2月5日。66歳の阪田三吉と31歳の木村義雄の対局が京都・南禅寺で始まった。写真の右側の奥が対局室。手番は阪田に敬意を表して木村が先手番、日数は7日、持ち時間は各30時間、指し掛け(夕方に中断)の手番は交互、外出は禁止、老齢の阪田に長女の付き添いを認める、などの条件が定められた。
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木村義雄は阪田三吉との対局について、後年に著書で「阪田氏との対局は千載一遇の好機。勝負よりも会心の棋譜を残すことで、棋士としての本懐を達せられる。私にとって一世一代の勝負。敗れたら名人を推されても辞退する」と回想した。そんな木村の強い覚悟に対して、将棋大成会は仕方なく了承した。
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読売新聞記者の菅谷北斗星は、阪田三吉と実力名人戦リーグで優勝候補の木村義雄との特別対局を企画した。木村は対局を希望したが、将棋大成会と主催新聞社は猛反対。木村が敗れて新名人に就いた場合、権威が失墜するからだ。その木村は「個人の資格でも指したい。大成会脱退も厭わない」と強く訴えた。
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読売新聞の将棋記者の菅谷北斗星は、大正14年に名人を自称して中央棋界から絶縁された阪田三吉(写真)の復帰を画策し、約10年にわたって大阪の阪田の自宅を訪れた。阪田の将棋と人柄を愛した作家の菊池寛も復帰を促した。阪田は断り続けたが、昭和11年の夏に「将棋を指してもいい」と菅谷に伝えた。
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実力名人戦リーグは昭和10年6月に始まった。ところが5カ月後、2人の八段昇段をめぐって紛糾し、将棋連盟と革新協会に分裂した。事態を憂いた関根金次郎は、棋士から実業家に転身した小菅剣之介に仲介を要請した。そして11年6月に関係者が協議した結果、両団体が合併して「将棋大成会」が設立した。
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昭和10年に東京日日新聞社(現・毎日新聞社)らの主催で実力名人戦が始まった。土居市太郎、花田長太郎、大崎熊雄、金子金五郎、神田辰之助、木村義雄など、9人の八段によるリーグ戦で名人を争った。対局は3日制・持ち時間は各15時間。最初の対局の観戦記で「あゝその日は来た!」は有名な書き出し。
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名人戦は昭和10年(1935)に創設され、最も伝統と格式がある。それ以前は終生名人制で、名人は死ぬまで在位した。時の関根金次郎十三世名人(写真)は、十二世名人の長寿によって、名人就位は指し盛りを過ぎた53歳だった。それから14年後。自身の苦い経験から英断し、勇退して実力名人制への道を開いた。
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4月5日(日)10時からNHK・Eテレ「将棋フォーカス」に田丸が出演する。「観る将検定」というクイズ形式で、8日から始まる名人戦がテーマ。木村義雄、大山康晴、升田幸三、中原誠、森内俊之、羽生善治など歴代名人を紹介。写真は2月放送の同番組。左から山口恵梨子、田丸、高橋茂雄(サバンナ)。
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3月11日の大地震からまもない14、15日。田丸は王将戦(久保利明王将ー豊島将之六段)第6局で立会人を務めた。対局場は神奈川県秦野市「元湯陣屋」。13日に対局者、立会人、関係者らは、小田急線に乗って無事に着いた(14日からは不通)。夕方から会食していると、20時頃に主催者の幹部が顔を出した。
