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田丸 雑学堂 (田丸昇 九段)さんのXデータ
@NoboruTama0505将棋棋士の田丸昇(九段)です。約50年の棋士人生で得た経験や知識を基に、将棋界の情報や裏話、雑学などを書きます。私が関心を持つ将棋以外の分野をたまに題材にします。若い頃に撮った写真や所有している写真も載せます。コメントをお待ちしています。- フォロワー 3,163 人
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- 住所 東京都
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田丸は40年前と同じく奈良県明日香村を自転車で回った。写真左は、段々畑が広がる穏やかな光景。手前の朝風峠は木々が高く聳えている。写真右は、万葉集でも歌われた「大原の里」。田園地帯に菜の花が咲いている。明日香村は京都などと違って、時間が止まったように森閑としている。また行ってみたい。
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写真は、蘇我氏の氏寺として6世紀末の頃に創建されたという「飛鳥寺」の本尊。飛鳥大仏の通称で知られ、日本最古の釈迦如来像。645年に中大兄皇子(後に天智天皇)らが宮中の儀式の最中に、蘇我入鹿(馬子の孫)を殺害した「乙巳(いっし)の変」が起きた。飛鳥寺の近くには入鹿の首塚がある。
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田丸は2013年3月、40年ぶりに奈良県明日香村を訪れた。写真は、権力を振るった豪族の蘇我馬子の墓と云われる、花崗岩で積み重ねられた「石舞台古墳」。中は空洞になっていて入れる。昔、狐が石の上で踊った話から石舞台と名付けられた。蘇我は仏教の普及に努め、血筋を引く聖徳太子を摂政に推した。
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田丸は古代史に興味を持った1973年2月。奈良県明日香村を訪れ、自転車で遺跡を巡った。豪族の蘇我馬子の墓と云われる「石舞台古墳」、聖徳太子の生誕地の「橘寺」、一帯を展望できる「甘樫丘」(写真)、林の中にある「天武、持統(夫妻)天皇陵」など。高松塚古墳の壁画は閉鎖されて見られなかった。
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写真は、1972年に奈良県明日香村の高松塚古墳で発見された壁画に描かれた女子群像。品のよい瓜ざね顔、極彩色の衣(上着)と裳(スカート)、手に持つ柄のついた団扇など、1400年の時代を越えて「飛鳥美人」がよみがえった。ただ発見から約30年後、カビの発生によって壁画が劣化したのはとても残念だった。
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国際教育科学文化機関(ユネスコ)が奈良時代の「飛鳥・藤原の宮都」を世界遺産に登録する見通しになった。宮殿跡や仏教寺院跡、豪族の墓など、奈良県橿原市、桜井市、明日香村に遺跡が点在している。中でも1972(昭和47)年3月に明日香村の高松塚古墳で発見された壁画は、古代史ブームを巻き起こした。
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結婚披露宴で配られた記念写真。新郎の扇子は升田幸三「手眼」。新婦は羽生善治「一歩千金」。
女流棋士の山根ことみから新郎新婦に贈られた「五月五日」の色紙。 -
写真は田丸が祝辞を述べた光景。「将棋は1対1の戦いというイメージがありますが、相手が何を考えているのかと、想像するゲームでもあります。将棋を熱烈に愛好した俳優の渡辺徹さんは、将棋は恋愛に似ていると言いました。新郎新婦もお互いの気持ちに寄り添って、夫婦生活を営んでください」
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写真・左から2人目は、新婦の母の幸美さん。とても明るく元気な方ですが、女手ひとつで娘を育てた苦労話を口にすると、思わず落涙し、新婦も「ウルッ」ときたようです。ちなみに優菜さんは田丸のITの師匠.このX(旧ツィーター)の立ち上げを難なくやってくれました。また困ったらお願いします。
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結婚披露宴の出席者は、両家の親族と友人を合わせて約25人。小人数だがその分、出席者の距離が近くなって親しみ合った。和洋のコース料理はとても美味しかった。中でも新婦の郷里の山形県で獲れた天然真鯛を焼き上げた土鍋ご飯は絶品だった.写真は、真鯛をバースデイケーキに見立てたもの。
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「八芳園」は1万坪以上の敷地に豊かな緑と花に被われ、「四方八方、どこを見ても美しい」ので名付けられた.江戸時代は大久保彦左衛門の屋敷だった。写真は結婚式場「壺中庵」の入口で、作家の遠藤習作が命名。新郎の宏史さんはアマ三段の腕前。都内の将棋クラブに通い、「職団戦」にもA級で出場。
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写真の中央左は、新郎の宏史さん、右は新婦の優菜さん。新郎は将棋を愛好し、田丸が主宰する将棋会のメンバーである。新婦も最近、将棋を習い始めた。実は、二人が入籍したのは昨年の5月5日。そして結婚披露宴も今年の同日。私の誕生日に合わせての慶事となり、私は二重の喜びにひたった。
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田丸は5月5日に76歳の誕生日を迎えた。例年は神奈川県厚木市に住む母の昭子(99)、妹の一美(74)=写真=に会うのが恒例だが、母が特養老人施設に入って時期がずれた。同日は東京・港区白金台「八芳園」で開かれた友人の結婚披露宴に出席。最近は慶事よりも法事が多く、浮き浮きした気分になった。
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「ジェームス三木さんを送る会」は華やかで和やかな雰囲気だった。2001年に三木と結婚した直子夫人(写真右)は、帰りがけに晩年の様子を田丸に伝えてくれた。ネットで将棋や数独を楽しむ穏やかな日々を過ごしたという。三木は自伝で「人が楽しんでくれると私まで楽しくなる。それが愛でしょ」と綴った。
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写真は右から渡辺謙、三田佳子、里見浩太朗らの俳優たち。いずれもジェームス三木・脚本のドラマに数多く出演した。1985年にNHK連続テレビ小説「澪つくし」で主演した沢口靖子は、「素人同然だった私にとって、女優の原点になった作品でした。今の私があるのはジェームスさんのおかげです」と語った。
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写真左は挨拶した俳優の渡辺謙。ジェームス三木・脚本のNHK大河ドラマ「独眼竜政宗」(1987年)で主演した。平均視聴率が約40%と大ヒットし、あの1年があって現在に至るという。三木も渡辺もその作品で大いに躍進した。写真右は北大路欣也で、政宗の父親役だった。母親役は岩下志麻。
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ジェームス三木は脚本家として成功しても、歌手時代の芸名にこだわった。13年間の売れない頃に応援してくれた人たちに、頑張っていると伝えたかった。ちなみに「ジェームス槙(まき)」という脚本家が、映画「東京物語」で知られる名監督の小津安二郎の筆名と知って驚いた。写真は俳優たちのご供花。
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写真・上中は歌手時代のジェームス三木。横浜のナイトクラブで同僚だった青江三奈が歌手デビューして華やかに活躍すると、嬉しい反面、嫉妬にかられたという。その後、心機一転してシナリオ教室に通った。そして新人コンクールに応募して1位になり、名監督の野村芳太郎に認められて脚本家を目指した。
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昨年の11月14日。「ジェームス三木さんを送る会」が東京・日比谷の東京會舘で開かれ、生前に交流があった田丸は出席した。写真の祭壇に愛煙家らしい遺影が飾られた。三木は20歳で歌手デビュー。フランク永井に対抗して前記の芸名がついた。ただ曲はまったく売れず、ナイトクラブで歌って生計を立てた。
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昨年の6月14日。NHK大河ドラマ「独眼竜政宗」などの作品で知られる脚本家のジェームス三木が肺炎で91歳で死去した。三木は将棋を愛好し(写真)、1991年に将棋界を題材にした前進座の舞台「煙が目にしみる」で脚本と演出を手がけた。田丸は将棋の指導を担当した。そんな縁で三木と交流があった。
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木村義雄は昭和10年代に無敵を誇った。69連勝の大記録を達成した横綱の双葉山と並び称された。木村は名人戦で土居市太郎、神田辰之助の挑戦を退けた。第4期から木村との予備対局で勝ち越し者が挑戦する制度になったが誰も資格を得られず、木村が名人戦で5連覇した。戦後棋界のことは、また改めて…。
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昭和12年12月。2年あまり行われた実力名人戦リーグで、木村義雄(写真)は1位となり、第1期名人に就いた。名人就位式は13年2月に将棋大成会本部で行われ、関根金次郎十三世名人らが出席して新名人を祝福した。式後は木村、関根らの有力棋士が明治神宮に参拝し、新旧名人の交代を神前に報告した。
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2月11日13時7分。木村義雄は95手で阪田三吉に勝った。図は投了局面。対局者らは別室に案内され、南禅寺の宝物を拝観した。そして阪田は「大きにご苦労さまでした」と挨拶し、長女と一緒に車で大阪に帰った。翌朝の読売新聞には「勝てる者も敗れし者も、今はただ無言」との終局後の様子が報じられた。
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京都・南禅寺の対局では、対局者らの食事は近くの老舗料亭「瓢亭」から出前を取った。三食とも献立に工夫があり、美食家の木村を満足させた。中でも朝粥のうまさを初めて知った。3日目の晩には寒さしのぎに燗酒を飲んだ。阪田三吉には知人から粥、湯葉のおひたし、生みたての生卵などが運ばれた。
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阪田三吉が得意の向かい飛車に振ると、木村義雄は守りの金を中段に進めて抑え込みにいった。やがて阪田は6時間も長考し、苦悩の様子を見せた。付き添いの長女がたまらず退室すると、阪田は休憩時に「父親として子どもに残す財産は何もない。苦しみながら将棋を指す姿を見てほしい」と諭したという。
