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田丸 雑学堂 (田丸昇 九段)さんのXデータ
@NoboruTama0505将棋棋士の田丸昇(九段)です。約50年の棋士人生で得た経験や知識を基に、将棋界の情報や裏話、雑学などを書きます。私が関心を持つ将棋以外の分野をたまに題材にします。若い頃に撮った写真や所有している写真も載せます。コメントをお待ちしています。- フォロワー 2,629 人
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- 住所 東京都
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藤井聡太の母親は、奨励会の例会日に関西将棋会館に送り届けると、2階道場のベンチで待ち続けた。対局の合間や休憩時間に母子が会うことはなかった。夕方に藤井が2階に降りてくると、母親はその瞬間が最も緊張したそうで、表情で成績はだいたいわかったという。小学校卒業まで送迎は2年半も続いた。
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藤井聡太は2012年10月、関西奨励会に10歳で6級で入会。愛知県瀬戸市の自宅から大阪市福島区の関西将棋会館まで、名鉄・新幹線・JRを乗り継いで2時間以上かかる。藤井は例会日に4時半に起床し、母親に付き添われて関西に向かった。谷川浩司も小学生時代、神戸市から母親と一緒に関西本部に通った。
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2016年3月、田丸九段は竜王戦で石川泰三段と対局した。本来は東京が対局場だが、私の希望で関西将棋会館に出向いた。同年に引退が内定していたからだ。記録係は休場明けの里見香奈三段。私は石川に敗れた終局後、「二人とも奨励会で頑張って」と激励すると、石川は4月で退会とのことで驚いた。
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1998年2月、田丸八段はB級1組順位戦で村山聖八段(写真)と将棋会館で対局した。乱戦が繰り広げられた終盤で、村山の鋭い寄せが炸裂した。勝った村山はA級への復帰昇級を1年で決めたが、ガンの再発で休場する事態に。そして同年8月8日、村山は29歳の若さで死去。好きな言葉は「土に還る」だった。
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1986年7月、田丸七段は王座戦の準決勝で桐山清澄棋聖と関西将棋会館で対局した。192手に及ぶ激闘の末に私が敗れたが、何か勝ち筋があるはずだと思った。感想戦ではある奨励会員から「こう指せば勝ち」と小声で言われた。その少年は「終盤は村山に聞け」の逸話で知られた村山聖(当時三段・17)だった。
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田丸は対局日の早朝、大阪環状線・福島駅の周辺をよく散歩した。店が延々と続く聖天通りの「売れても占い商店街」というコピーは面白かった。関西の商売人は働き者で、早朝から喫茶店を開いていた(東京はほぼ皆無)。街を歩いていると、浜村淳が長期に司会を務めたラジオ番組があちこちで流れていた。
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田丸は関西に対局で行くと、新大阪駅構内の「浪花そば」でよく食べた。福島駅前の「都そば」では、油揚げが具の「きざみそば」と「五目ご飯おにぎり」を気に入った。村山聖が通った駅前の「更科食堂」は庶民的な味だった。ABC放送の隣の「つるや」で朝食を食べると、早朝番組に出た著名人を見かけた。
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1982年に5階建ての旧関西将棋会館が大阪市福島区に開館した。阿倍野区の木造2階の旧関西本部と比べると、御殿のように立派だった。現在の福島駅の周辺はホテルや商業ビルが並んで賑やかだが、40年以上前は地味な街に見えた。深夜は飲食店が閉まり、ある棋士は終局後に牛丼の吉野屋でビールを飲んだ。
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写真(いずれも田丸撮影)上は、関西本部の近くの喫茶店でくつろぐ桐山清澄。競馬好きが高じて、スポーツ紙で予想記事を書いていた。写真下は、関西本部2階で開かれた初の女性将棋教室で、多面指しで指導する滝誠一郎。●大阪市福島区の旧関西将棋会館での思い出は、後日に公開します。
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田丸は1975年の頃に関西に所用で行くと、同世代の棋士たちと交流した。写真(田丸撮影)は、神戸の酒場での光景。右は森安秀光(後年にダルマ流の異名)、左は淡路仁茂(同不倒流)。ほかに小阪昇、酒井順吉もいた。最後に元宝塚の女将の小料理屋に寄り、タコ焼きを出汁にひたす「明石焼き」を初めて食べた。
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C2順位戦の対局翌日、田丸はC1昇級を知らされた。星田啓三は降級点が累積3回も決まった。私は結果的に星田を引退に追い込んだことになった。ところが1974年5月の将棋連盟総会で「C3」制度が上程され、紛糾した末に決定した。星田は救済されて現役を続行できた。私は首切り人にならずほっとした。
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田丸はC2順位戦の対局後、星田啓三に誘われて近くの居酒屋で飲んだ。星田はうまそうに杯を傾けていた。やがて、星田は成績不良で降級点に該当することが気になった。累積3回で降級して引退となる。棋士同士が飲んだ場合、勝者が奢るのが通例だが、先輩の星田は「まあまあ、ここは私に‥」と払った。
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田丸は1974年2月、C2順位戦で星田啓三(写真・将棋年鑑より)と関西本部で対局した。星田は伝説の棋士・阪田三吉の弟子。中盤で有利だった私は、星田の師匠譲りの力強い指し方で終盤は負け筋になったが運良く勝てた。東京の対局結果によってC1昇級が決まったが、深夜12時になっても判明しなかった。
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田丸は1975年9月、新人王戦の準決勝で森安秀光と関西本部で対局した。記録係は谷川浩司。森安の武器は三間飛車で、その戦法をよく指していた谷川は勉強するつもりで務めた。写真は、谷川が書いた棋譜用紙。私は終盤で寄せの好手を逃し、199手の激闘の末に敗れた。谷川は正着をわかっていたと思う。
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神戸市須磨区の谷川浩司の実家から大阪市阿倍野区の関西本部まで、山陽本線や地下鉄を乗り継いで1時間40分かかった。小学生の谷川が独りで通うのは大変なので、母親が付き添って9時に始まる奨励会に送り届け、須磨に帰ってから夕方に迎えに行った。1日2往復で約7時間の乗車。それが1年も続いた。
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田丸は1972年2月、2回目の「東西決戦」に勝って棋士になった。73年5月に将棋雑誌の企画で関西本部を訪れて奨励会の対局を取材し、4月に入会した谷川浩司(当時11・5級)を初めて見た。度の強そうなメガネをかけていて、体はまだ小さかったが、きちんと正座した対局姿は大器の片鱗がうかがえた。
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田丸は1970年2月の「東西決戦」に敗れて四段昇段を逃した。挫折感に陥ったとき、関西に対局で来ていた5歳年上の池田修一に誘われて外に出た。お好み焼き屋を3軒ハシゴすると、満腹になって辛さは治まった。帰り際に寄った古本屋では、本棚の表題を平静に読めた。写真(撮影・弦巻勝)右は池田。
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1970年2月。奨励会の関東三段リーグで優勝した田丸(当時19)は、関西リーグ優勝者の坪内利幸(同21)と関西本部で対局した。当時は「東西決戦」と呼ばれたその対局で勝たないと、四段に昇段できない制度だった。私は必死に戦ったが、緊張しすぎて完敗した。終局後は棋士になれなかった挫折感に陥った。
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田丸が大阪市阿倍野区の旧関西本部に初めて行ったのは奨励会三段・18歳のとき。当時は関東への対抗意識が強く、私のような少年でも棋士や奨励会員から「よそ者が来たな」という感じでじろりと睨まれた。本部に住み込んで雑用をする「塾生」には、坪内利幸、森信雄、児玉孝一らの奨励会員が務めていた。
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田丸は関東所属なので関西での対局は少なかったが、大阪市福島区の旧関西将棋会館、阿倍野区の旧関西本部には、いろいろな思い出がある。阿倍野の本部は木造2階建てで、大阪市南部の天王寺駅からバスで約10分。大通りに面していたが入口が狭く、初めて来た人はうっかり通り過ぎることもあったという。
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大阪府高槻市に関西将棋会館が新設された。11月17日の記念式典で、最上階の5階の特別対局室で谷川浩司と羽生善治の「こけら落とし記念対局」が行われた。高槻駅の北西側の改札口は「将棋会館口」の愛称となり、駅前の式典で鉄道好きの藤井聡太が制帽姿で挨拶した。12月3日に最初の公式戦が行われた。
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1973年に棋士チームの野球に初参加したときの写真があったので掲載する。打者は当時23歳の田丸。現在、この神宮外苑グラウンドの周辺に高層ビルを建てる計画があり、その関連で数多くの樹木が伐採される恐れがある。音楽家の故・坂本龍一さんが訴えたように、私も自然の景観を損ねることに反対だ。
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棋士チーム「キングス」と作家の逢坂剛さんのチームの前掲の集合写真で、逢坂さんの後ろにいるのが、オールスターの「9連続奪三振」や日本シリーズの「江夏の21球」で知られた元プロ野球選手の江夏豊さん。当日は逢坂さんの応援で来た。とても気安い方で、田丸とのツーショット写真に応じてくれた。
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田丸は1988年に38歳で草野球をやめたが、「キングス」は現在も活動している。11年前の2013年には久しぶりに参加した。対戦相手は将棋を愛好する直木賞作家の逢坂剛さんが率いる編集者中心のチーム。写真中央のサングラス姿が当時70歳の逢坂さん。その右前は田中寅彦九段。中列右端は田丸。
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棋士チーム「キングス」は、漫画家の水島新司さんが率いる「ボッツ」と神宮外苑で定期的に対戦した。水島さんは将棋好きで、「父ちゃんの王将」という漫画を描いた。そんな縁で水島さんの漫画「あぶさん」第31巻(写真)の中に田丸が登場し、酒豪の強打者「影浦安武」と会話する場面を設定してくれた。