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田丸 雑学堂 (田丸昇 九段)さんのXデータ
@NoboruTama0505将棋棋士の田丸昇(九段)です。約50年の棋士人生で得た経験や知識を基に、将棋界の情報や裏話、雑学などを書きます。私が関心を持つ将棋以外の分野をたまに題材にします。若い頃に撮った写真や所有している写真も載せます。コメントをお待ちしています。- フォロワー 3,163 人
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図は阪田三吉が2手目に△9四歩と端歩を突いた局面。深慮遠謀の手、これで十分との自負、負けたときの言い訳、などの声が上がった。阪田の孫弟子の内藤國雄は後年に「駒損さえしなければ、どんな形でも指せるという将棋観。強者は将棋は簡単ではないことを知っている」と、阪田将棋の奥深さを語った。
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伝説の棋士・阪田三吉が16年ぶりに表舞台に復帰すると、「世紀の対局」として社会的に注目された。読売新聞には「待望の巨人今ぞ起つ!」の見出しが載った。木村義雄が初手に▲7六歩と指すと、阪田は△9四歩と端歩を突いた。後手番のうえに不急の手なので、立ち遅れの懸念がある。阪田の真意とは…。
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昭和12年2月5日。66歳の阪田三吉と31歳の木村義雄の対局が京都・南禅寺で始まった。写真の右側の奥が対局室。手番は阪田に敬意を表して木村が先手番、日数は7日、持ち時間は各30時間、指し掛け(夕方に中断)の手番は交互、外出は禁止、老齢の阪田に長女の付き添いを認める、などの条件が定められた。
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木村義雄は阪田三吉との対局について、後年に著書で「阪田氏との対局は千載一遇の好機。勝負よりも会心の棋譜を残すことで、棋士としての本懐を達せられる。私にとって一世一代の勝負。敗れたら名人を推されても辞退する」と回想した。そんな木村の強い覚悟に対して、将棋大成会は仕方なく了承した。
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読売新聞記者の菅谷北斗星は、阪田三吉と実力名人戦リーグで優勝候補の木村義雄との特別対局を企画した。木村は対局を希望したが、将棋大成会と主催新聞社は猛反対。木村が敗れて新名人に就いた場合、権威が失墜するからだ。その木村は「個人の資格でも指したい。大成会脱退も厭わない」と強く訴えた。
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読売新聞の将棋記者の菅谷北斗星は、大正14年に名人を自称して中央棋界から絶縁された阪田三吉(写真)の復帰を画策し、約10年にわたって大阪の阪田の自宅を訪れた。阪田の将棋と人柄を愛した作家の菊池寛も復帰を促した。阪田は断り続けたが、昭和11年の夏に「将棋を指してもいい」と菅谷に伝えた。
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実力名人戦リーグは昭和10年6月に始まった。ところが5カ月後、2人の八段昇段をめぐって紛糾し、将棋連盟と革新協会に分裂した。事態を憂いた関根金次郎は、棋士から実業家に転身した小菅剣之介に仲介を要請した。そして11年6月に関係者が協議した結果、両団体が合併して「将棋大成会」が設立した。
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昭和10年に東京日日新聞社(現・毎日新聞社)らの主催で実力名人戦が始まった。土居市太郎、花田長太郎、大崎熊雄、金子金五郎、神田辰之助、木村義雄など、9人の八段によるリーグ戦で名人を争った。対局は3日制・持ち時間は各15時間。最初の対局の観戦記で「あゝその日は来た!」は有名な書き出し。
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名人戦は昭和10年(1935)に創設され、最も伝統と格式がある。それ以前は終生名人制で、名人は死ぬまで在位した。時の関根金次郎十三世名人(写真)は、十二世名人の長寿によって、名人就位は指し盛りを過ぎた53歳だった。それから14年後。自身の苦い経験から英断し、勇退して実力名人制への道を開いた。
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4月5日(日)10時からNHK・Eテレ「将棋フォーカス」に田丸が出演する。「観る将検定」というクイズ形式で、8日から始まる名人戦がテーマ。木村義雄、大山康晴、升田幸三、中原誠、森内俊之、羽生善治など歴代名人を紹介。写真は2月放送の同番組。左から山口恵梨子、田丸、高橋茂雄(サバンナ)。
