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田丸 雑学堂 (田丸昇 九段)さんのXデータ
@NoboruTama0505将棋棋士の田丸昇(九段)です。約50年の棋士人生で得た経験や知識を基に、将棋界の情報や裏話、雑学などを書きます。私が関心を持つ将棋以外の分野をたまに題材にします。若い頃に撮った写真や所有している写真も載せます。コメントをお待ちしています。- フォロワー 2,302 人
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- 開始した日 2023年9月17日
- 住所 東京都
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旧将棋会館の2階は数10畳もの大広間。平日は公式戦の対局、週末はアマ大会が行われた。写真(田丸撮影)は、1974年10月上旬の女流アマ名人戦の光景。華やかな雰囲気だが勝負は苛烈だった。ある記者は「凄絶!女の戦い」と表現した。なお10月下旬に女流棋士制度が発足し、成績優秀者がプロに推薦された。
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旧将棋会館に入ると、広いロビーの先に「特別対局室」があった。写真は、右側の奥から升田幸三、ニ上達也、有吉道夫らのA級棋士。この部屋で指すことが一流棋士の証しだった。掛軸の「将棋會舘」は、将棋を愛好した洋画家の梅原龍三郎が揮毫した。障子の裏側には中庭があり、風雅な雰囲気だった。
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田丸が木造2階建ての旧将棋会館に初めて行ったのは、小中学生向けの将棋会に参加した1964年。正面に着くと1階の将棋道場から駒音が聞こえてきた。やがて道場で指すようになり、若き日の米長邦雄の指導対局を見て、爽やかな印象に惹かれた。その後、佐瀬勇次の門下に入り、米長の弟弟子になれた。
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将棋会館がある千駄ヶ谷の土地は徳川家の馬場跡だった。江戸時代末期に薩摩藩から将軍家に嫁いだ天璋院(大河ドラマ「篤姫」のヒロイン)は、江戸幕府が崩壊すると千駄ヶ谷の徳川宗家の屋敷で暮らした。千駄ヶ谷一帯は萱が多く生えていて、一日に千駄(一駄は36貫)の萱を刈り取ったのが地名の由来という。
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東京・千駄ヶ谷の将棋会館は、千駄ヶ谷駅前に建設中のビル1階に10月以降に移転する。戦後の将棋連盟本部は、後楽園球場のスタンド下の事務室、中野の元横綱・照国の相撲部屋跡を経て、1961年に千駄ヶ谷に木造2階建ての旧将棋会館が建設された。プロ野球、相撲、国立競技場と、スポーツと縁があった。